「……カネ、アカネっ」
「……あ」
アヤメは極小さな声で呼びながら、隣の壇上で正座していたアカネの腕を周りに気づかれないよう、突付いた。アカネはひくり、と身体を震わせてまつげを上げる。
キツネ色の尻尾をしたイドリアンが、相聞の歌を奏で終えて、彼女の返答を待っていた。アカネはこっそりとしまった、という表情をしてから、黙ってそそと頭を下げた。イドリアンの青年は同じように頭を下げると、ことんと供え台に白い衣が結わえられた枝を置いて踵を返す。
アカネはやっとゆっくりふう、と息を吐いた。
「どうしたの、ぼうっとしてたわ」
「ううん、何でもないの」
さすがに相聞の歌の中に、エイロネイアの温室に咲いていた懐かしい花の名前があってぼんやりしていた、なんて言えない。
アヤメは何も言わずに微笑むと、自分の前で歌っていたイドリアンの青年に、もう何度目かになる礼を返した。
求婚は儀式的なものでもある。でも正直、自分に求婚してくる人なんて両手で数えられるんじゃないかと思っていた。アヤメはやっぱり長蛇の列なんだろうな、と思っていたけれど。
けれど、現実を見て唖然としてしまった。壇上にあがってみると、アヤメと同じくらいの人の群れが伸びていた。あんぐりと口を開けてしまいそうになって、アヤメに何とか引っ張ってきてもらったくらいだ。
「……びっくりしたわ」
「アカネがそれくらい綺麗になった、ということでしょう? もう少し自信を持ったらいいじゃない」
アヤメはころころと笑いながら言った。綺麗になろうと努力をしたのだから、喜ぶべきなのかもしれない。けれどそんなにいきなり自信が生えるわけじゃない。
――これ、ちょっと大変かも。
何人もの歌が聞こえてくる。それぞれのイメージで、それぞれアヤメやアカネを讃える歌。まだ馴れてないせいかもしれない。次々と流れ込んでくる新しい歌に、少しだけ消耗気味だった。
アヤメは私より強く、明確に聞こえたり見えたりしてるのかしら? やっぱりすごい。アヤメは始まったときから楚々とした態度を崩さずに、女神のような顔でお辞儀を繰り返している。
リィンは最後の方に来るのかしら。泉守り候補の彼のことだから、きっと特別な美しい歌とイメージを披露して、周りも陶酔させてしまうのかもしれない。
ふと、小さな歓声があがった。
「あらあら」
アヤメが苦笑いした。
ヴェールの下から覗くと、遠目に侍女の衣装を纏ったスオミと、少し戸惑いながら顔を覆って泣き縋っている彼女を支えているクロイツの姿が見えた。
「よかったわね、スオミ」
「……そうね」
頷いた声が少し沈んでしまった。スオミもずっとキジローを思っていた。クロイツがイドラに来てくれて、本当によかったと思っている。最初にクロイツをイドラに連れてきたのは、彼だった。
彼はイドラの土地と人に感謝する、とばかり言っているけれど、イドラだって彼にこんなに助けられている。
「……来てないわね」
「……うん」
アヤメがぽつりと口にする。アカネはきゅ、とドレスの裾を握った。
4日。エクルーがイドラへ帰ってきてから4日が経っていた。エクルーは数回、様子を見に行っていたようだ。アカネも行かないか、と誘われたけれど、行かなかった。待ってる、と決めたから。
……いや、違う。
本当は少し怖かったんだ。本当に帰ってきてくれたのか、それを確かめるのさえ少し怖くて。早く逢いたいと思っていたのに、意気地なし。
そうしてついに当日。イドリアンと他国からの客が騒がしい春祭りの場に、いつもの黒衣の姿は、未だにない。
―― ……。
またひとつ、歓声があがる。きっと、誰かの求婚が成功したんだろう。
―― ……もう羨ましがらない、って決めたのにな。
目を閉じるふりで、涙腺が緩むのを堪えた。列の先頭にいたまた別の青年が、アカネの前に進み出る。
そのときだった。
「……っ」
「アカネ?」
俯いていたアカネが、唐突に弾かれたように顔を上げた。正面で枝を捧げようとしていたイドリアンの青年が、吃驚してきょとんとする。アヤメはヴェールの下で軽く眉を潜めた。
かたんっ、と枝の供え台に膝を軽くぶつけて、アカネがその場に立ち上がる。晴れた青いイドラの空を目に止めたまま。
列を作っていたイドリアンの青年たち、それからあちらこちらで酒盛りをしていた客人たちが不審に思って手を止める。アヤメは妹の手を引こうとして、はっとその手を止めた。アカネの見ている方向と同じ方を見る。
どこまでも広い蒼穹が、静かに広がっている……いや、
風が、動いた。
きいいいぃぃぃぃぃっ!
軋むような鳴き声が、空を震わせて遠い空から伝わってくる。
「!」
蒼穹に、一点、染みを落としたように、不意に黒い点が浮かぶ。春風と共に、それは逆行に確かな形を取り始めた。
「――っ!」
がたんっ!
「アカネっ!?」
「ちょ、アカネっ!?」
スカートの裾を持ち上げて、アカネが壇上から飛び降りた。倒れた供え台から、ばらばらと、山になっていた枝が零れ落ちた。後ろからアヤメとルナの声がしたけれど、足は止まらなかった。
求婚者の列を潜り抜けて、酒盛りをしている集団の脇を通って、青い広野に出る。また風が瞬いた。
きいいいしゃああああっ!
もう一度、広大な蒼穹に大きな鳴き声が響き渡った。澄んだ青い空に、黒点から翡翠の色をした翼竜が翼を広げて吠える。その背で手綱を握る人は、鴉紋の甲冑に黒いマントを翻す。
「……っ、レアシス、レアシス……っ!?」
翼竜はアカネの頭上で一度旋回すると、いつも降り立つ青谷の方向へと飛翔する。アカネは潤んだ目を拭って、もう一度駆け出した。
広野の終点、青谷に向かう先が崖になっている。アカネがその前で立ち止まると、回り込むように翼竜が羽ばたいた。崖先に旋回し、初めて彼の顔が見えた。
「・・・っ」
堪えていた涙が、支えを失って零れ落ちる。上空の風の中に黒のマントをはためかせて、大分伸びた黒絹の髪を靡かせて。……あの日と、変わらぬ微笑みを浮かべて。
崖の上のアカネに目を留めて、彼の唇が動く。風で上手く聞こえない。でもわかる。呼んでくれた。もう一度、アカネ、って。
彼は竜の背から手を伸ばす。アカネは顔を上げて、涙を拭いた。
たんっ!
「ちょ……っ!」
アカネを追ってきたルナと数人のイドリアンは絶句した。白い衣装と銀の髪を陽光と春風に靡かせて、アカネは躊躇いなく崖の縁を蹴った。ふわり、と白い妖精が羽ばたくように空に舞う。
イドリアンたちが息を呑む中で、崖のすれすれを滑空した翼竜が、彼女を攫った。黒衣のマントの中に彼女を収めて、そのまま崖の上を飛び立つ。
ようやく崖の縁へ追いついたルナたちの視界から、瞬く間に翼竜は青谷の稜線に消えていく。
呆れたような息を吐いて、それでもルナは薄い笑みを浮かべて後ろ頭を掻いた。
「ったく、まあ、最後まではらはらさせてくれるわね。乙女が空から拉致される、なんて春祭りの歴史に残るんじゃないの?」
「……いや、結構これで伝説にはあっとるよ」
のったりと場から現れたメドゥーラが、ルナの隣に立って言った。
「春の乙女は生贄だからな。黒い男に拉致されたとか、連れ込まれたとか、いろいろ説がある。それで季節が巡る、祈りだからな」
「面白いくらい合ってて、いっそ清々しいわね。やれやれ」
前髪を掻きあげて、ルナは肩を下ろして呟いた。
「……おめでとう。良かったわね、アカネ」
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☆←聞きながらお楽しみください。
『too late? not late …』 / 茅原実里
今 あなたの腕 心の中へ飛び込んでもいいの? too late…?
本当の想いは体中駆け巡り 愛しさにやかれてうろたえる
人形だわ 恋だなんて言えない頃は
目覚めかけてる 私の熱い 自然な姿
今 あなたの腕 心の中へ飛び込んでもいいですか
まだ翅が濡れて 生まれたばかり 動けない蝶々だけど
きっと驚くほど飛べるのでしょう 私だけの真実は
この胸の奥に隠されてるよ 探したいの待っててね
初めて気づいた 守られてきたことに
さりげないその手が嬉しいよ
人形には戻れないと いつか叫んでた
動き始める私のために ください勇気
ただ愛し合って漂うよりも 違う絆求めてる
ほら翅も空に憧れてたの あなたが見つけてくれた
もう閉じ込めない 閉じこもらない 新しい自分がいる
ずっと触れていたい 感じながらも怯えている 何故だろう?
今 あなたの腕 心の中へ飛び込んでもいいですか
まだ翅が濡れて 生まれたばかり 動けない蝶々だけど
きっと驚くほど飛べるのでしょう 私だけの真実は
この胸の奥に隠されてるよ 探したいの待っててね
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……水と薔薇の香りがする。日差しと緑の輝きが見える。
ああ、ようやく、行き着いた。長い旅だった。
「……っ、おかえり、おかえり、なさい、レアシス……っ」
「……ただいま。アカネ」
――ただいま。君が、僕の帰る場所。
>『too late? not late …』 Fin .
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