――最後の奇跡が、必要ですか?
ブリギットの薔薇を巡った騒乱が収まってしばらくが過ぎた。
最初は混乱を余儀なくされた国内も、徐々に落ち着きを取り戻してきている。ヘンリー卿を最後の旗とし、その背後に控えていたサーシャ=ウィンチェスターの失脚によって、議会内の右翼派は声を潜め、次々と投降した。前皇帝の死に関する裁判は不義の裁判として葬られ、カルミノ国王の同盟状によって新たにロレンツィア帝の復帰が決定した。
そうした激動の国家間を巻き込んで、慌しい日々が巡り、早くも1週間が過ぎた頃。
宛がわれた一室でエクルーは軽く伸びをした。
スプリングのよく効いたベッドは柔らかすぎて、いまいち身体が馴染まない。イドラの堅い寝床が少し懐かしい。
イドラに来た彼が、「変なんですよね。こっちの方がよく眠れるんですよ」と言っていた。彼とは理由は違うだろうけど、俺も同意見だな。
サイドテーブルと椅子にかけていたジャケットを取って、手早く着替える。イドラの気温になれているせいか、エイロネイアの初春の空気は早朝でも温かく感じる。
そのまま待っていれば朝食が届けられるけれど、それを待つ気はなかった。一人部屋にしては広すぎるほどの部屋。瀟洒ではあるけれど、何となく寂しく感じる部屋を出る。
まだ冷たい廊下を、早起きの執事と召使たちが次々とカーテンを開けている。薄暗い、広い廊下に朝の光が入って目覚めの時間を告げていた。
「……」
何人かに挨拶をされて、エクルーは片手をあげてそれを返した。
もう覚えてしまった道を通って、ヴァーラスキャールヴ(エイロネイア城の正式名称。神の住む銀の城の意)でも一番高い塔に登る。ノックをする前に先に、装飾された扉が重々しく開いた。
「……朝っぱらからうるさいのですう。少し静かに昇って来れないのですか?」
「悪かったよ。そんなに睨まないでく、」
かこーんっ!
「だっ!」
「……がたがた煩せぇ。こっちは薬の調合で徹夜してんだよ。でかい音出すんじゃねぇ」
「……」
扉の向こうから投げつけられた木製の薬品ケースがエクルーの頭にヒットする。まだ少しぼんやりしていた頭が一気に冷めた。
出迎えをしてくれたシャルに断って部屋に入ると、予想通りに眠たげな目でソファに身を預ける魔道技師がいた。顔色はいつも以上に悪い。
「……大丈夫?」
「大丈夫に見えないなら放っとけ。静かにしろ」
ただでさえ目つきが悪いのに、徹夜と疲労のせいでなおさら機嫌が悪そうに見える。そのままクッションに顔を埋める。
そっとしておくことにしよう。
「なあ、シャル」
「……相変わらずですう」
「……そっか」
顔を俯かせて言うシャルに、エクルーは肩を竦めた。顔を上げると、嫌が応にもベッドの脇に備え付けられた青い薬袋とそこから伸びる細い管が目に入る。伸びた管は針を通じて、横たわる部屋の、否、城の主の、痩せてしまった白い腕に繋がっていた。
ふう、と密かに溜め息をついて、エクルーはベッドに近づいた。
一際、豪華な天蓋のベッドのシーツに埋もれるようにして、エイロネイアの主である青年は静かに、死んだように横たわっていた。規則的に上下する胸だけが、生命の灯火を告げてくれる。
開け放たれた窓から差す陽光も、温かくなり始めた春の風にも気づかずに、彼は瞼を閉じたままだった。ずっと。
「……おはよう、レアシス」
「レアシスはまだ目を覚まさないの?」
「……相変わらずなのです。カルミノで倒れてから、ずっと眠りっ放しなのです」
蒼い柱で3方を囲んだ魔道台の上にぼんやりと浮かび上がる影に、シャルは俯いたまま答えた。幻影室[ヴィジョン・ルーム]の中央に浮かんだエルザの影は、眉を八の字に曲げて顎に手を置いた。隣に見えるエドモンドとパールも、同じような表情で軽く俯く。
「……ベルサウス少佐は何て言ってるんだい?」
「……急激に魔道力を消費して、急激に無理矢理回復させたものだから、肉体に負荷がかかったらしいのです。
生身の身体でグングニルを使うだけでも無茶なのに、シスコン小僧の精神力を借りて無理に回復したりするから、ただでさえ弱ってた身体の方がぴーぴーになったのですよー……」
「え、ええと?」
「もー、シャル! もうちょっと解りやすく話してちょうだい!」
「……いきなり劇薬と解毒薬を一気に飲んで、逆に身体がついていかなくなった、ってことだよ」
疑問符を浮かべるパールと、癇癪を起こしかけるエルザに、至極冷静にエドモンドが解説する。唇を尖らせるエルザに、しかし、シャルはらしくなく「ごめんなさいなのですよー…」と呟くだけだった。
勢いを殺がれたエルザは罰が悪そうに頬を掻く。
「“賢者の石”でもどうにもならないのかしら?」
「エルザ、“賢者の石”は何にでも使える便利アイテムなわけじゃない。僕も魔導師についてはよく知らないけど、今の陛下の身体には毒にしかならないかもしれないよ?」
「……その通りなのですよ。傷も魔道力ももう元の通りになっているのですよ。でも、身体が受けたショックはどうにもならないのです。ゆっくり、回復を待つしかできないのです……。
でも……」
「でも?」
シャルのあどけない顔が、泣きそうにくしゃりと歪んだ。
「ずっと寝てるので、体力がちょっとずつなくなってるのです……。栄養は点滴で取っていますが、それだけでは人間の身体はどうにもならないですよ……」
「シャル……」
歪めた頬から透明な雫が落ちて、彼女の黒い衣装に斑点を描く。
「だ、大丈夫よ、シャル。だってこれだけ修羅場を越えてきたのよ? こんなところでレアシスがくたばるわけないわ!」
「……わかってるのです。シャルだって、主様を信じてるのです……」
シャルの言葉は、どこか自分に言い聞かせているようだった。スカートを握る手に力が篭って、握り拳が白くなっている。
「あの、このことアカネさんは……?」
「……過労で今は面会できない、とだけ伝えてるです。……今の主様をアカネに見せるのは……」
シャルの声がだんだんと小さくなる。彼が倒れて1週間。状態は回復しているのに、目だけが覚めない。1週間という時は、回復する一方で容赦なく彼の体から体力を奪っていた。
エルザの口が開いて、だがまた噤まれた。苛立ったように唇を尖らせて、でも何も言えないでいる。エドモンドがその肩をぽん、と叩いた。パールはもうもらい泣きしそうだった。
「……もうちょっと、もうちょっとだけ待ってみるのです……。主様だって……帰って来ようとしてるのですから」
ヴァーラスキャールヴの庭園は、城主の意向でところどころ王立研究院の研究フィールドになっている。やたらと薬草[ハーヴ]が充実しているのはそのせいだった。
「……あんたも物好きだねえ」
そう声をかけられたのは、エクルーがその広大な中庭の隅で香草を集めているときだった。
トーンの高い、女性の声だ。
振り返ると、真紅の髪を結わえた、黒いケープの魔道師が、東屋の上から悠然とエクルーを眺めていた。
「君は確か……」
「ローズマリーにタイム、カモミールにセージにユーカリ、と……。全部、精神疲労に効くもんか。
クーデターの最中といい、よくあのジュニアにそこまで付き合うもんだ」
「……大事な友人なんだ。当たり前じゃないか」
名前を思い出すより先に、何とはなしに悪意の残る台詞に言い返してしまった。相手は小さな女の子なのに、どうにもささくれが立ってしまうと思ったら、目がエクルーと同じ金色なのだ。それをにやり、と細めて息を吐く。
……思い出した。
確か、エイロネイアで一番大きな藩国の領主だ、と言っていたっけ。この1週間、城主が不在でもエイロネイアが立ち直りを見せてきているのは、彼女の手腕が大きいという話だ。国家間の問題から、内部の問題まで、掌握して片付ける。
鮮やかなまでの手並み。
けれど、エクルーは城の中を彷徨ううちに聞いてしまっていた。
高官たちが密やかに囁いている言葉。
『……このまま陛下が目覚めなかったら』
『だとすると……後任は、やはり現在の代理のフロアリア帝に……』
「ジュニアが眠りについてから1週間か。短くないね。そろそろ、同盟の調印くらいはしなくちゃいけない時期だってのに」
「……」
煙管の煙を吐きながら、レジェンディア当主は息を吐く。軽く流そうとしているのに、いつもの軽口が出てこない。
同盟の調印? そんなもの、どうでもいいじゃないか。
「俺に何か用?」
「いや? ジュニアの世話女房がいると聞いたんでね。ちょいとそんな物好きの顔が見てみたくなっただけだよ。
あんた、外国の人間なんだろ? ここまで協力するような義理はないと思うんだけど、何でいつまでも国元に帰らないのか気になってね」
「……友達だからだよ。それ以上、理由なんて必要あるもんか」
「……へえ」
すう、と彼女の金色の目が細められる。
「あんたにとっては彼が目覚めない方が都合がいいのかもしれない。でも、俺は困るんだ。俺だけじゃない。俺の帰る国にいるみんなが困るんだ」
「……」
彼女は依然としてにたにたと、エクルーの手元を眺めていた。ちらり、ともう一度、エクルーは少女の顔を見る。
高い位置で括った赤い髪。エクルーと似たような色の金色の瞳。どこか含んだような、癖のある笑みを浮かべて、悠々と東屋の手すりに腰掛けている。なんだか背筋が寒くなる笑みだ。背は低いし、年齢もさほど高くは見えない。ひょっとしたら、ルナよりも若く見えるかもしれない。
女の子には味方をすると決めているけれど、気分なのか、それとも感性なのか。何だか調子が狂う。
「あんたに皇帝の座を譲って、レアシスが帰ってくるならいくらでもあげるよ。俺の住んでるところは、皇帝だろうが乞食だろうが平等に受け入れてくれる。
……でも、俺は医者でも魔道師でもない。これくらいしかできないんだ」
「……」
少女はにたり、と笑ったまま興味深そうにエクルーを観察する。煙管の灰を専用の器に落として、ふう、と紫色の吐息を吐いてから、
「……いい友人を持ったじゃないか、ジュニアも」
「え?」
小さく呟かれた一言を、エクルーが確認しようとしたときだった。
ばたばたと、慌しく渡り廊下の向こうから足音が響いてくる。少女も、そしてエクルーも顔を上げてそちらを見遣ると、程なくして顔を真っ赤にした若いメイドが現れた。
少女を目にすると、今度は真っ青になって背を伸ばすが、少女はゆるゆると手を振って友好を示した。案外、悪い人間でもないのかもしれない。そんなことを考えたエクルーだったが、少女に対する思考は、メイドの堰を切った声にかき消された。
「あ、あの、陛下の意識が――」
ばたんっ!
「レアシス!?」
数分もかけずに塔の上に辿り着いたエクルーは、荒々しく扉を開け放った。
中にはアリッシュと、カシスを中心として数人の医師がベッドを囲んでいる。数歩遅れてユーアも階段をあがってきた。
医師たちの影の向こうに上体を起こした城の主が、半ば呆然として座っている。エクルーは緩んだ目尻を拭ってベッドに駆け寄った。
「おいっ!」
何故かカシスが声を荒げて制止しようとする。
でも、久方ぶりに見る、少しだけ痩せてしまってはいるものの、しっかりと黒曜の瞳を開いて此方を見上げる親友の姿が嬉しくて、エクルーはベッドの上に身を乗り出した。
「よかった……。レアシス、おかえり。本当によかった……」
つん、と鼻をすするエクルーを見て、彼はどこかぼんやりと顔を上げる。少し乱れた髪を払って、小さく首を傾げ――そう、言った。
「……君は、誰――?」
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