『too late? …』 side_R vision3 香月
『too late? …』side_Rの第3話。
るーちゃの立ち位置が。ごめん、るーちゃ;;
ちょろっと感動編。さあ、最後の奇跡を始めよう?
ちなみにコンロンカはアカネ科の植物で、『神話』『私に触れないで』『不老長寿』といった意味があります(そんな小ネタはいい)。
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るーちゃの立ち位置が。ごめん、るーちゃ;;
ちょろっと感動編。さあ、最後の奇跡を始めよう?
ちなみにコンロンカはアカネ科の植物で、『神話』『私に触れないで』『不老長寿』といった意味があります(そんな小ネタはいい)。
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「……で、レアシスの調子はどう? 状態は?」
「……」
王立研究院での精密検査が3回目を数えた日にち。
白髪の魔道技師は心底鬱陶しげにエクルーを見上げた。絹と年初めに取れる柔らかな綿花のみで作られたソファに、行儀悪く大の字に寝そべる彼は、相変わらずの青い顔でしっ、しっと手を振った。
「文字通り、当人が寝ても覚めても毎日、同じ質問ばっかするんじゃねぇよ。耳が腐る」
「仕方ないじゃないか。俺は医者じゃないんだもん。で、どうなんだ?」
開き放しの本をアイマスク代わりに乗せながら、カシスは大きく息を吐く。
「さあてな。言っただろ。流れに任せるのが最善だ、って」
「でも、じゃあエイロネイアはこの先どうなるんだよ?」
「さあ? しばらくはレジェンディアの女帝が踏ん張るだろーがよ。その先は知らねぇな。俺の管轄じゃねぇ」
「……」
エクルーは沈黙した。
『それでも、あの国は僕の故郷で……。あの人は……僕の父だったんです』
いつだったろうか。思わず憤ってしまって、何もかも忘れたらいい、と言ってしまったことがある。そんな父親は忘れちまえ、と。
相好を崩さない彼が、痛むように顔を歪めて、吐き出した言葉はそれだった。
どれだけこの国がレアシスにとって大事だったか。捨てようとしても捨てられない故郷だったのか。エクルーは痛いほど知っていた。
ますますわからなくなってくる。
何が正解で、何があいつの幸せなんだろう。レアシスは、今、何を望んでいるのだろう。
「カシスは、どうするんだ?」
「ああ?」
「このまま、レアシスの記憶が戻らなかったら……?」
カシスは面倒くさそうに頭を掻いた。額に置いた本をばさり、と床に落とすと、サイドテーブルに手を伸ばす。キャップの付いたひょうたんに近い入れ物の口に吸い付くと、中の琥珀の液体を2、3口呑んで、
「それこそ知ったこっちゃねぇ。きりがいいところで見切りをつけるだけだぁな。俺は俺の生き方を最優先する。いつまでもくたばり損ないに付き合ってる暇はねぇんだ」
「くたばり損ない、って……あのなあ」
「いつまでもずるずると金魚のフンみたいにくっついて看てろ、ってか? 昔の医者が背後を追ってきて、悠々生きられるヤツがいるか。
第一、そうなったらアレにとって、俺は知りもしない過去の遺物だろ? 逆に邪魔なんだよ。互いのためにならねぇやな」
「……」
飄々と言い放って、ドリンクケースの中身を空にする。アルコールかと思ったら、その匂いがしない。不味そうにグラスの水で口をゆすいでいるところを見ると何かの薬だったらしい。栄養剤だろうか。そういえばカシスもシュアラの激戦で死に掛けた、と言ってたっけ。十数年前のルナのようにはっきり髪の色に出たりはしないが、消耗は激しいんだろう。
シャルやアリッシュのように長い時間ではないが、彼もレアシスと付き合いは深かったはずだ。彼らとはまた別の形の絆だったかもしれない。それなのに……ああ、ルナ、君の選択は正解だよ。彼の方がよっぽど度胸が据わっている。
彼は落ちた本を再び拾い上げると、またしっしっと手を振った。
「てめぇは今、御大のお守だろ。人の短い睡眠を邪魔してねぇでさっさと行け」
研究院の敷地内に聳える広大な温室に入ると、彼はコンロンカの群れの真ん中に座り込んでいた。大事そうに膝にケープをかけて、服の汚れを構わずに。八重咲きのコンロンカの花は、まだ額も花も開いていない。
ただ、ここ数日と少しだけ違ったのは、今日だけはぼんやりと空を見上げるのではなくて、じっと膝の上のケープを睨むように見ていたことだった。いつもは風に任せている表情も、今日は何となく翳って見えた。
「……どうかした?」
「エクルー」
背後に立つと、彼は眉間に皺を少し寄せてエクルーを見上げた。
いつもなら、半径5メートルでも気づくのに。ほんの数日前までは、気づくのが遅れるたびに、野生の狼が懐いてくれているようなかすかな喜びがあった。でも、驚くほど縮んだ距離は、今は何とはなしに、物悲しい。
そんな感情を飲み込んで、エクルーは彼の隣に腰を下ろす。
「元気ないよ? お腹すいた?」
「それが……」
遠慮がちに示してきたのは、膝にかけていたケープの裾だった。一瞬、怪訝に首を傾げるが、すぐに悟る。裾の部分がほつれて破けている。庭園や温室には蔦や藪も少なくないから、どこかにひっかけたんだろう。
伺うような視線の彼に、エクルーは小さく吹き出してほつれた裾を持ち上げた。
「大丈夫。これくらいならすぐ直るよ。エリシアから絹糸を貰って来よう?」
ほつれた織物がすいすいと元通りに縫われていく様を、彼は目を離さずにじっと見つめていた。面白いのだろうか。でも表情は楽しんでいるというよりは、真剣そのものだった。
「はい、これで大丈夫。直ったよ」
「本当に?」
「本当。嘘ついたってどうしようもないじゃないか」
最後に糸を切ったエクルーは、ほつれのなくなったケープを肩にかけてやった。安堵したように前のめりになっていた姿勢を正して、彼は「ありがとう」と口にした。温もりを確かめるように中途半端にかけられていたケープを羽織り直す。
邪気なく目を細めて、彼は隣に積まれていた植物と動物の図鑑を捲り始めた。このところのお気に入りらしい。忘れた知識をふと思い出すかのように、ゆっくりとぱらぱらとめくっていく。
きぃ、と鳴いた温室の中の小さな黄色の鳥はが、彼を興味深げに観察していた。
「……」
ケープを受け取った瞬間にわかった。エクルーが一番馴染んできた布の手触りだったから。
滑らかで、雲のように軽くて。古い針と機織で編まれた、柔らかな、早い季節で一番の、子ルパの毛の手触り。
―― ……アカネ、だよな。
イズミは水に纏わる紋様を機織りに織り込むのが好きだし、アヤメは自分の音を流れにして布を織る。第一、彼女らの織った織物は、藪にかけたくらいで破れることなどない。
……アカネは彼女らとは逆に、留学や勉強で、泉の巫女の修行を行わなかった。彼女らに比べて経験も少ないはずだし、コンプレックスが原因で自分から進んで巫女になろうともしなかった。
でも、寒がりな彼が無自覚に無理を重ねるのを見て、必死でアヤメに習ったんだろう。思えば去年の末、アカネは頻繁にイドラに帰ってきてはアヤメと一緒にいた気がする。
―― ……覚えて、ないんだよな……。
「……レアシス」
「?」
ぱらぱらと捲るページから、彼は顔を上げる。
「別にわざわざ直さなくても、ほつれてない上着なんていっぱいあっただろう? 君の部屋にも、どににでもさ」
「……」
彼は指をこめかみに当てた。
……何をしているんだろう。こんな試すような真似。何の意味もないじゃないか。
「何でだろうね。でも、大事にしたかったんだよ。破れてしまったとき、何だか哀しかった。それにこれが一番、温かい。
だからこれがいいんだ。ありがとう、エクルー」
「……そっか」
穏やかに返しながら、エクルーはこっそり深い溜め息を吐いた。
振り子はメトロノーム、天秤はやじろべえ。どちらかに傾いたりはしない。傾いて、くれない。
振り子の針を、天秤皿を、誰かが止めてくれたら、これほど楽なことはないのに。誰もその力も勇気も持っていない。
「……すまない、エクルー」
「?」
「エクルーの方が元気ないよ。確かに記憶はないけど、そこまで鈍くないさ」
「……」
くすり、と笑いながら彼は言った。
「皆、気を使ってくれていることくらいわかる。記憶がない、っていうのに、腫れ物に触れるみたいに誰も何も聞かないし、何も言わない。こんな場所に住んでるんだし、普通は何かしがあるはずなのに、皆、僕を放って置いてくれる」
「……それは」
「これでも自分で調べたんだよ? ……記憶が失くなる原因。外的な傷害か心因性か。
どっちかはわからないけど、それなりに理由があったんだろう? だからみんな、何も言わない」
「……」
あまりにも穏やかな笑顔で言う。言葉に詰まって、エクルーは口元を抑えて視線を逸らした。
いつのまにか真剣になっている目線で、彼が何を求めているのかがわかる。じっとりと、背中に汗が噴き出した。
しばらく睨み合う。石化したように動けないエクルーから、溜め息と同時に、先に視線を逸らしたのは彼の方だった。
「……ごめん。言いにくいことだってわかってるのにね」
「君は、記憶を取り戻したいと思ってるの?」
「うん」
迷わずに彼は頷いた。また言葉に詰まりそうになって、エクルーは首を振った。深呼吸をする。やっぱり、俺は決められない。
「……それが、いいことばっかりじゃない記憶でも?」
「……」
ぱらり、とまた1ページ、ページが進む。でも、彼はもうそれを見ていなかった。すっ、と細めた目が、表情を変えずにエクルーを射抜いた。
「今は思い出したいのかもしれない。でも、思い出してから後悔するかもしれないよ?」
「……」
「君は頭がいいから、いずれ全部気づいちゃうと思う。だから言うけど、君が忘れた記憶はね、いいものばかりじゃない。むしろ、悪いことがいっぱいなんだ。みんなが君に思い出させない方がいいんじゃないか、って思うくらい」
「……」
「怖い? そりゃそうだよね。でも君にはもう一つ、選択肢がある。このまま忘れて生きていくことだ」
「このまま……?」
「そう。このまま。みんな、サポートしてくれる。君はきっと幸せになれるよ。幸せになるべき人だから、君は」
「……」
彼の眉間にぎゅ、と皺が寄る。エクルーは言葉を切った。
彼は乗り出した身を引いて、眼帯の目に手を押し当てた。守るように、けれど、何かを懐かしむように。
今までで一番長い沈黙が降りた。のろのろとゆっくりになる時間に、エクルーは心臓をつかまれているような気分だった。
雲が透明なガラス越しに空を流れている。見える空の端から箸までを、ゆっくりと雲が渡った。
「エクルー」
吐き出した彼の声に、エクルーの体が凍る。
「……みんなが隠したがるほど嫌なことだったんだ。今の僕にはそんなこと想像できない。
……それに怖いよ。想像もつかないんだから」
「……」
「でも、エクルー。考えてもみて」
彼は微笑みながら面を上げる。微笑みはどこか晴れやかで、すっと胸をやわらかく痛ませた。
「思い出して後悔するかもしれない。でも、思い出さないでも後悔するかもしれない。
何年も経ってから思い出して後悔するかもしれないし、思い出さなかったことを後悔する日が来るかもしれない」
「……」
「いつ、どんな理由で後悔するかなんてわからないよ。だったら僕は思い出したい。エクルーのことも、みんなのことも。だって今、僕が幸せでもみんなもエクルーも元気のない顔をしてるよ。僕は、それは望まない。
それにもったいないじゃないか。全部を忘れたままなんて」
「それは」
「ねえ、エクルー?」
唐突に彼はふと立ち上がった。コンロンカの葉がふわり、と揺れて、不思議な桃のような香りが立ち上る。
天井のガラス越しに見えた空に、彼は穏やかに目を細めながら、
「前の僕はそんなに不幸せに見えたかな?」
「……え」
くすり、と懐かしささえ覚える笑いが漏れた。暖かな温室の中を、一歩一歩、踏みしめるように、懐かしむように歩くと、彼はエクルーを振り向いて、言った。
「僕はそうは思わないよ?」
――何年も彷徨った。どこに産まれようか、どこを生きようか、どこで生きていくべきか。ずっと探してた。
「だって、これだけの人に思いやってもらって、こんな綺麗で青い空の下で生きて、帰る場所があって、君みたいな友人もいて」
――でも、探してたんじゃあない。目をそむけていただけだ。心から笑うより、涙を流すより、嘘の笑いを浮かべている方が、ずっとずっと楽だったから。でも、やっと見つけた。
「幸せじゃないはず、ないじゃあないか」
―― ……僕は、もう逃げない。
「……」
「? エクルー?」
両肩を掴んで、大きく息を吐き出して。
彼の肩に置いた手に額を押し付けていたエクルーの広い肩は、いつのまにか細かに震えていた。
「どうかした? お腹でも痛い?」
「……何でもない。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
心配そうに覗き込む彼に、少し掠れた声でエクルーは答える。少し力を抜いてしまえば、そのまま涙腺が決壊してしまいそうだった。くそ、絶対に泣かない。泣くのはまだ早いと悟ったから。
本当に馬鹿だった。何で戻らない方がいい、なんて思ったんだろう。
彼があれだけの大戦を起こしたのは何のためだった? ヘンリー卿を糾弾してしまえば済むだけの話を、わざわざ諸国を巻き込んで、あれだけのことを起こしたのは一体、誰のためだった?
……幸せになりたかったからじゃないか。
自らが架けた虹の橋の袂で、彼女と幸せになりたかったからじゃないか。青い空の下、生まれたばかりの虹の橋をゆっくりと育てながら、ヴァーラスキャールヴのフリズスキャルヴから、その世界を見たかったからじゃないか。
果てしない旅の末に、ようやく見つけたその夢を取り上げる権利なんて、一体どこの誰にあったんだろう。
何てことはない。単純な答えだった。
「エクルー? 本当に大丈夫?」
「……ごめん、もう大丈夫」
最後に来た波を飲み下して、エクルーはようやく顔を上げた。手を伸ばして彼の黒髪をくしゃくしゃと撫でる。
強くなろう。暗闇の裂く雷光にも、澱んだ空を羽ばたく白鴉にもなれないけれど、この大きな空を少しだけ支えることのできる大きな翼になれるよう。
目尻に少し残った水をぐい、と拭って、エクルーは顔をあげた。憑き物の落ちたような、少しだけ晴れやかな。
「そろそろ戻ろうか。みんな心配するよ」
「うん」
やっと顔をあげたエクルーの笑みに安堵したのか、彼はふわりと笑って頷いた。
エクルーは感慨にもう一度、溜め息を吐いて彼を促すように先に歩き出した。少しだけ眉間を押さえながら。
「……?」
それを追おうとして、ふと、彼はバショウの花壇の前で足を止めた。石段も何もない場所で、何故足を止めたのか。自分でもよくわからない。
視線をあげると、バショウの花壇とバンブーツリーの群れの向こうに、隣接した研究棟の白い壁が見える。何の変哲もない、ガラスの天井が突き出た、ただの壁。
「……?」
「レアシスー、帰るよー? どうしたのー?」
食い入るように明後日の方向を眺めていた彼は、入り口から響くエクルーの声で我に返った。「今行く」と答えてから、もう一度、今しがた眺めていた場所を振り返る。
「……」
数秒だけ、またガラスのの天井と石の壁を眺めてから、彼は少し慌てて踵を返した。
――……さあ、最後の奇跡を、始めようか?
「……」
王立研究院での精密検査が3回目を数えた日にち。
白髪の魔道技師は心底鬱陶しげにエクルーを見上げた。絹と年初めに取れる柔らかな綿花のみで作られたソファに、行儀悪く大の字に寝そべる彼は、相変わらずの青い顔でしっ、しっと手を振った。
「文字通り、当人が寝ても覚めても毎日、同じ質問ばっかするんじゃねぇよ。耳が腐る」
「仕方ないじゃないか。俺は医者じゃないんだもん。で、どうなんだ?」
開き放しの本をアイマスク代わりに乗せながら、カシスは大きく息を吐く。
「さあてな。言っただろ。流れに任せるのが最善だ、って」
「でも、じゃあエイロネイアはこの先どうなるんだよ?」
「さあ? しばらくはレジェンディアの女帝が踏ん張るだろーがよ。その先は知らねぇな。俺の管轄じゃねぇ」
「……」
エクルーは沈黙した。
『それでも、あの国は僕の故郷で……。あの人は……僕の父だったんです』
いつだったろうか。思わず憤ってしまって、何もかも忘れたらいい、と言ってしまったことがある。そんな父親は忘れちまえ、と。
相好を崩さない彼が、痛むように顔を歪めて、吐き出した言葉はそれだった。
どれだけこの国がレアシスにとって大事だったか。捨てようとしても捨てられない故郷だったのか。エクルーは痛いほど知っていた。
ますますわからなくなってくる。
何が正解で、何があいつの幸せなんだろう。レアシスは、今、何を望んでいるのだろう。
「カシスは、どうするんだ?」
「ああ?」
「このまま、レアシスの記憶が戻らなかったら……?」
カシスは面倒くさそうに頭を掻いた。額に置いた本をばさり、と床に落とすと、サイドテーブルに手を伸ばす。キャップの付いたひょうたんに近い入れ物の口に吸い付くと、中の琥珀の液体を2、3口呑んで、
「それこそ知ったこっちゃねぇ。きりがいいところで見切りをつけるだけだぁな。俺は俺の生き方を最優先する。いつまでもくたばり損ないに付き合ってる暇はねぇんだ」
「くたばり損ない、って……あのなあ」
「いつまでもずるずると金魚のフンみたいにくっついて看てろ、ってか? 昔の医者が背後を追ってきて、悠々生きられるヤツがいるか。
第一、そうなったらアレにとって、俺は知りもしない過去の遺物だろ? 逆に邪魔なんだよ。互いのためにならねぇやな」
「……」
飄々と言い放って、ドリンクケースの中身を空にする。アルコールかと思ったら、その匂いがしない。不味そうにグラスの水で口をゆすいでいるところを見ると何かの薬だったらしい。栄養剤だろうか。そういえばカシスもシュアラの激戦で死に掛けた、と言ってたっけ。十数年前のルナのようにはっきり髪の色に出たりはしないが、消耗は激しいんだろう。
シャルやアリッシュのように長い時間ではないが、彼もレアシスと付き合いは深かったはずだ。彼らとはまた別の形の絆だったかもしれない。それなのに……ああ、ルナ、君の選択は正解だよ。彼の方がよっぽど度胸が据わっている。
彼は落ちた本を再び拾い上げると、またしっしっと手を振った。
「てめぇは今、御大のお守だろ。人の短い睡眠を邪魔してねぇでさっさと行け」
研究院の敷地内に聳える広大な温室に入ると、彼はコンロンカの群れの真ん中に座り込んでいた。大事そうに膝にケープをかけて、服の汚れを構わずに。八重咲きのコンロンカの花は、まだ額も花も開いていない。
ただ、ここ数日と少しだけ違ったのは、今日だけはぼんやりと空を見上げるのではなくて、じっと膝の上のケープを睨むように見ていたことだった。いつもは風に任せている表情も、今日は何となく翳って見えた。
「……どうかした?」
「エクルー」
背後に立つと、彼は眉間に皺を少し寄せてエクルーを見上げた。
いつもなら、半径5メートルでも気づくのに。ほんの数日前までは、気づくのが遅れるたびに、野生の狼が懐いてくれているようなかすかな喜びがあった。でも、驚くほど縮んだ距離は、今は何とはなしに、物悲しい。
そんな感情を飲み込んで、エクルーは彼の隣に腰を下ろす。
「元気ないよ? お腹すいた?」
「それが……」
遠慮がちに示してきたのは、膝にかけていたケープの裾だった。一瞬、怪訝に首を傾げるが、すぐに悟る。裾の部分がほつれて破けている。庭園や温室には蔦や藪も少なくないから、どこかにひっかけたんだろう。
伺うような視線の彼に、エクルーは小さく吹き出してほつれた裾を持ち上げた。
「大丈夫。これくらいならすぐ直るよ。エリシアから絹糸を貰って来よう?」
ほつれた織物がすいすいと元通りに縫われていく様を、彼は目を離さずにじっと見つめていた。面白いのだろうか。でも表情は楽しんでいるというよりは、真剣そのものだった。
「はい、これで大丈夫。直ったよ」
「本当に?」
「本当。嘘ついたってどうしようもないじゃないか」
最後に糸を切ったエクルーは、ほつれのなくなったケープを肩にかけてやった。安堵したように前のめりになっていた姿勢を正して、彼は「ありがとう」と口にした。温もりを確かめるように中途半端にかけられていたケープを羽織り直す。
邪気なく目を細めて、彼は隣に積まれていた植物と動物の図鑑を捲り始めた。このところのお気に入りらしい。忘れた知識をふと思い出すかのように、ゆっくりとぱらぱらとめくっていく。
きぃ、と鳴いた温室の中の小さな黄色の鳥はが、彼を興味深げに観察していた。
「……」
ケープを受け取った瞬間にわかった。エクルーが一番馴染んできた布の手触りだったから。
滑らかで、雲のように軽くて。古い針と機織で編まれた、柔らかな、早い季節で一番の、子ルパの毛の手触り。
―― ……アカネ、だよな。
イズミは水に纏わる紋様を機織りに織り込むのが好きだし、アヤメは自分の音を流れにして布を織る。第一、彼女らの織った織物は、藪にかけたくらいで破れることなどない。
……アカネは彼女らとは逆に、留学や勉強で、泉の巫女の修行を行わなかった。彼女らに比べて経験も少ないはずだし、コンプレックスが原因で自分から進んで巫女になろうともしなかった。
でも、寒がりな彼が無自覚に無理を重ねるのを見て、必死でアヤメに習ったんだろう。思えば去年の末、アカネは頻繁にイドラに帰ってきてはアヤメと一緒にいた気がする。
―― ……覚えて、ないんだよな……。
「……レアシス」
「?」
ぱらぱらと捲るページから、彼は顔を上げる。
「別にわざわざ直さなくても、ほつれてない上着なんていっぱいあっただろう? 君の部屋にも、どににでもさ」
「……」
彼は指をこめかみに当てた。
……何をしているんだろう。こんな試すような真似。何の意味もないじゃないか。
「何でだろうね。でも、大事にしたかったんだよ。破れてしまったとき、何だか哀しかった。それにこれが一番、温かい。
だからこれがいいんだ。ありがとう、エクルー」
「……そっか」
穏やかに返しながら、エクルーはこっそり深い溜め息を吐いた。
振り子はメトロノーム、天秤はやじろべえ。どちらかに傾いたりはしない。傾いて、くれない。
振り子の針を、天秤皿を、誰かが止めてくれたら、これほど楽なことはないのに。誰もその力も勇気も持っていない。
「……すまない、エクルー」
「?」
「エクルーの方が元気ないよ。確かに記憶はないけど、そこまで鈍くないさ」
「……」
くすり、と笑いながら彼は言った。
「皆、気を使ってくれていることくらいわかる。記憶がない、っていうのに、腫れ物に触れるみたいに誰も何も聞かないし、何も言わない。こんな場所に住んでるんだし、普通は何かしがあるはずなのに、皆、僕を放って置いてくれる」
「……それは」
「これでも自分で調べたんだよ? ……記憶が失くなる原因。外的な傷害か心因性か。
どっちかはわからないけど、それなりに理由があったんだろう? だからみんな、何も言わない」
「……」
あまりにも穏やかな笑顔で言う。言葉に詰まって、エクルーは口元を抑えて視線を逸らした。
いつのまにか真剣になっている目線で、彼が何を求めているのかがわかる。じっとりと、背中に汗が噴き出した。
しばらく睨み合う。石化したように動けないエクルーから、溜め息と同時に、先に視線を逸らしたのは彼の方だった。
「……ごめん。言いにくいことだってわかってるのにね」
「君は、記憶を取り戻したいと思ってるの?」
「うん」
迷わずに彼は頷いた。また言葉に詰まりそうになって、エクルーは首を振った。深呼吸をする。やっぱり、俺は決められない。
「……それが、いいことばっかりじゃない記憶でも?」
「……」
ぱらり、とまた1ページ、ページが進む。でも、彼はもうそれを見ていなかった。すっ、と細めた目が、表情を変えずにエクルーを射抜いた。
「今は思い出したいのかもしれない。でも、思い出してから後悔するかもしれないよ?」
「……」
「君は頭がいいから、いずれ全部気づいちゃうと思う。だから言うけど、君が忘れた記憶はね、いいものばかりじゃない。むしろ、悪いことがいっぱいなんだ。みんなが君に思い出させない方がいいんじゃないか、って思うくらい」
「……」
「怖い? そりゃそうだよね。でも君にはもう一つ、選択肢がある。このまま忘れて生きていくことだ」
「このまま……?」
「そう。このまま。みんな、サポートしてくれる。君はきっと幸せになれるよ。幸せになるべき人だから、君は」
「……」
彼の眉間にぎゅ、と皺が寄る。エクルーは言葉を切った。
彼は乗り出した身を引いて、眼帯の目に手を押し当てた。守るように、けれど、何かを懐かしむように。
今までで一番長い沈黙が降りた。のろのろとゆっくりになる時間に、エクルーは心臓をつかまれているような気分だった。
雲が透明なガラス越しに空を流れている。見える空の端から箸までを、ゆっくりと雲が渡った。
「エクルー」
吐き出した彼の声に、エクルーの体が凍る。
「……みんなが隠したがるほど嫌なことだったんだ。今の僕にはそんなこと想像できない。
……それに怖いよ。想像もつかないんだから」
「……」
「でも、エクルー。考えてもみて」
彼は微笑みながら面を上げる。微笑みはどこか晴れやかで、すっと胸をやわらかく痛ませた。
「思い出して後悔するかもしれない。でも、思い出さないでも後悔するかもしれない。
何年も経ってから思い出して後悔するかもしれないし、思い出さなかったことを後悔する日が来るかもしれない」
「……」
「いつ、どんな理由で後悔するかなんてわからないよ。だったら僕は思い出したい。エクルーのことも、みんなのことも。だって今、僕が幸せでもみんなもエクルーも元気のない顔をしてるよ。僕は、それは望まない。
それにもったいないじゃないか。全部を忘れたままなんて」
「それは」
「ねえ、エクルー?」
唐突に彼はふと立ち上がった。コンロンカの葉がふわり、と揺れて、不思議な桃のような香りが立ち上る。
天井のガラス越しに見えた空に、彼は穏やかに目を細めながら、
「前の僕はそんなに不幸せに見えたかな?」
「……え」
くすり、と懐かしささえ覚える笑いが漏れた。暖かな温室の中を、一歩一歩、踏みしめるように、懐かしむように歩くと、彼はエクルーを振り向いて、言った。
「僕はそうは思わないよ?」
――何年も彷徨った。どこに産まれようか、どこを生きようか、どこで生きていくべきか。ずっと探してた。
「だって、これだけの人に思いやってもらって、こんな綺麗で青い空の下で生きて、帰る場所があって、君みたいな友人もいて」
――でも、探してたんじゃあない。目をそむけていただけだ。心から笑うより、涙を流すより、嘘の笑いを浮かべている方が、ずっとずっと楽だったから。でも、やっと見つけた。
「幸せじゃないはず、ないじゃあないか」
―― ……僕は、もう逃げない。
「……」
「? エクルー?」
両肩を掴んで、大きく息を吐き出して。
彼の肩に置いた手に額を押し付けていたエクルーの広い肩は、いつのまにか細かに震えていた。
「どうかした? お腹でも痛い?」
「……何でもない。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
心配そうに覗き込む彼に、少し掠れた声でエクルーは答える。少し力を抜いてしまえば、そのまま涙腺が決壊してしまいそうだった。くそ、絶対に泣かない。泣くのはまだ早いと悟ったから。
本当に馬鹿だった。何で戻らない方がいい、なんて思ったんだろう。
彼があれだけの大戦を起こしたのは何のためだった? ヘンリー卿を糾弾してしまえば済むだけの話を、わざわざ諸国を巻き込んで、あれだけのことを起こしたのは一体、誰のためだった?
……幸せになりたかったからじゃないか。
自らが架けた虹の橋の袂で、彼女と幸せになりたかったからじゃないか。青い空の下、生まれたばかりの虹の橋をゆっくりと育てながら、ヴァーラスキャールヴのフリズスキャルヴから、その世界を見たかったからじゃないか。
果てしない旅の末に、ようやく見つけたその夢を取り上げる権利なんて、一体どこの誰にあったんだろう。
何てことはない。単純な答えだった。
「エクルー? 本当に大丈夫?」
「……ごめん、もう大丈夫」
最後に来た波を飲み下して、エクルーはようやく顔を上げた。手を伸ばして彼の黒髪をくしゃくしゃと撫でる。
強くなろう。暗闇の裂く雷光にも、澱んだ空を羽ばたく白鴉にもなれないけれど、この大きな空を少しだけ支えることのできる大きな翼になれるよう。
目尻に少し残った水をぐい、と拭って、エクルーは顔をあげた。憑き物の落ちたような、少しだけ晴れやかな。
「そろそろ戻ろうか。みんな心配するよ」
「うん」
やっと顔をあげたエクルーの笑みに安堵したのか、彼はふわりと笑って頷いた。
エクルーは感慨にもう一度、溜め息を吐いて彼を促すように先に歩き出した。少しだけ眉間を押さえながら。
「……?」
それを追おうとして、ふと、彼はバショウの花壇の前で足を止めた。石段も何もない場所で、何故足を止めたのか。自分でもよくわからない。
視線をあげると、バショウの花壇とバンブーツリーの群れの向こうに、隣接した研究棟の白い壁が見える。何の変哲もない、ガラスの天井が突き出た、ただの壁。
「……?」
「レアシスー、帰るよー? どうしたのー?」
食い入るように明後日の方向を眺めていた彼は、入り口から響くエクルーの声で我に返った。「今行く」と答えてから、もう一度、今しがた眺めていた場所を振り返る。
「……」
数秒だけ、またガラスのの天井と石の壁を眺めてから、彼は少し慌てて踵を返した。
――……さあ、最後の奇跡を、始めようか?
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